ニートのアメリカ留学物語

今アメリカに留学している。ニート。日々の鬱憤を爆発する場所。

大人になるって損かもしれない 。少年のような大人

大人になるって損かもしれない



僕ら大人っていうのは、休日に必死に精神力を回復させて、出勤日にその溜め込んだ精神力を毎日毎日少しづつ消耗していく。


例えば、朝早く起きないといけないことだったり、尊敬していない上司に敬語を使ってへこへこしていることだったり、名刺交換の時には名刺を相手より下に出すことだったり、メールに必ず添付する、「お世話になっております。」というテンプレだったり。


こういったものに僕ら社会人は毎日毎日精神をすり減らされ、無くなってしまわないように、土日に必死に精神力を溜め込む。


そしてまた仕事が始まれば、相互監視の社会の中で、浮いてしまわないように必死に嘘の自分を取り繕い、空気を読むという自分個人にとってなんの利益にもならないつまらない文化の中で生きていき、また精神を磨耗していく。




今日僕は上司からの電話で朝起きた。電話に出るのは面倒だったので、一旦無視をしてそのあとのLINEを待った。届いたLINEを見ると、どうやらすでに出社時間の10時を過ぎており、僕は完全に寝坊していた。


もう寝坊したものはしょうがないと、タバコに火を付けた。

うちの会社では、遅刻する場合、社内チャットで全員に遅刻を報告しないといけないルールがある。僕はめんどくさいなーと思いながら、社内チャットに「寝坊したため到着が1時間遅れます。」と一言記載した。


重い体を起こしながら身支度をして会社に向かった。

社内チャットを開くと、いくつか返信が届いていた。


「社会人としてその報告で大丈夫ですか?」

と来ていた。謝罪がないことが気にくわないらしい。


「社会人としてってどういう意味ですか?」

僕は純粋に感じた疑問を返した。



そうして社内チャットを閉じてTwitterを見ながらバスに乗り、会社に到着した。

すると社内ではちょっとした騒ぎになっていた。


どうやら僕の「社会人としてってどういう意味ですか?」が挑発と取られたようで、返信した相手が怒っているようだった。


社内チャットを見てみると。「わからないなら大丈夫です」と一言返信が来ていた。


そのあと上司に呼び出されて、「遅刻したくせに相手を挑発するな!」と言われた。

(わからないことを質問しただけで挑発になるのかー)と思った。




その上司にも「あなたの思う社会人としてってどういう意味ですか?」と尋ねた。

彼は「わかるだろそれぐらい!自分で考えろ!」と言われた。


「わからないから聞いてるんですが」

「わからないなら周りに合わせろ。空気を読め。」

とどう聞いても明確な答えは返ってこなかった。


いったい彼の言った【社会人として】ってなんなんだろうなぁ。






さて、これは今日あった実話なのですが、今お読みのあなたにお聞きします。

「社会人として」ってなんでしょうか?



僕にはどうしてもわかりません。会社での行動なんて、自分にとってメリットがあって、会社にとってもメリットがある。それだけでいいんじゃないでしょうか?それ以外に守るべきものなんてあるんでしょうか?【社会人として】のふわふわした明確なメリットもないものを、いったいなぜみんな黙って守っていられるのでしょうか?


僕にはできないよそんなことは。





大人とは何か?


今現在の一般感覚で話すと、大人とは「大人」というコミュニティに属する事だ。

大人というコミュニティには様々なルールが設定されている。ほとんどの人は、学生を卒業すると何の疑いもなく、当たり前のことのようにそのコミュニティに属する。


その「大人コミュニティ」には様々な制約が掛けられている。

例えば、自立であったり、お金を稼がないといけないことだったり、身だしなみをしっかりすることだったり、それなりの家に住むことだったり。



端から見ていて、どうしても馬鹿馬鹿しいなーという文化がこの「大人コミュニティ」には多数まかり通っているんだけど、その代表的なものが「〇〇として」という概念で、子供なら許されるけど、大人なら「大人として」守らないといけない意味のない文化が世の中には多数ある。


この「大人として」に大きく分類される「として文化」にはいくつか細分化されるものがあって、

・社会人として

・男として、女として

・親として


まぁ色々あるんだけど、この「として文化」が大人の行動をかなり制限してしまっている。



「大人コミュニティ」ではどうやらこの「として文化」が大好きなようで、個々の独立した勝手な価値観で形成される「として文化」で、お互いがお互いが監視しあう気持ちの悪い行動原理が出来上がっている。


大人は「大人として」、お互いがお互いの首を絞め合い、時には絞めすぎて人が死ぬことだってあるのに、それになんの疑問も持たずに、精神を毎日毎日すり減らして生きていく。「責任」と言い換えた方がわかりやすいかな。まーいいや。「として文化」の方がインパクト強いだろ。



例えば仕事の依頼なんてLINEで「これできるー?」「できるよ!」で十分に成り立つ。


なのにいちいちメールには

「お世話になっております。〇〇社の〇〇と申します。

 本日は〇〇の件についてお伺いしたいことがありまして、メールさせていただきました。

 本題

 ご検討のほどよろしくお願いします。

 〇〇社 〇〇」


本来たった一行で終わる依頼が長ったらしくなって、本題がわかりづらくなるだけの不要な「社会人として」のビジネスマナーが成り立ってしまっている。



本来さ、こんな「として文化」なんて必要ないんだよな。



アフリカを見れば、毎日明日食うものに困っていて、生きていくためにマナーなんて気にする余裕はない。時には犯罪を犯してでも明日食う飯をかき集める。

日本にこんな「として文化」が成り立つのは、経済的に余裕があるからで(実際にはないだろうけど)、余裕があるからこそ無駄な行為を美徳に感じるのかなーなんてことを思う。



守らないといけないマナーなんて、本来大人も子供も変わらないだろうに。


子供のような大人こそ、これからは価値がある


今回は「子供のような大人」というテーマで依頼してもらったのに、本題に入るまでにめちゃめちゃ遠回りをしてしまった。


僕は最近話題の人は皆、この「大人コミュニティ」に属さない人たちだってことを感じる。

例えば堀江貴文さんだったり、キングコング西野さんだったり、編集者の箕輪さんだったり、プロ奢られヤーだったり。


彼らは皆「社会人として」「芸人として」「編集者として」「大人として」。

こう言った「として文化」を破壊して、「やりたいこと」だけを重視して生きている人だってことを感じる。



「大人コミュニティ」に属すると、自分のやりたいことまでも制限される。成り立たせる必要を感じない社会を成り立たせるためのパーツとして組み込まれる。価値を感じない「として文化」のなかで生きていくことになる。


そうして個性を奪われ、魂を抜かれ、雇用されることでしか生きていけない大人が完成する。


社会を回すパーツといえば意義を感じる人もいるだろうが、言ってみればそれは旧態依然の商品のパーツだ。例えばゼンマイ仕掛けのオモチャであったり。




日本人にはこれからもきっとしばらくの間は、この「として文化」は色濃く残ると思う。

だからきっと、「として文化」を捨てて、「大人コミュニティ」に属さないと、きっと強烈に批判されるだろう。人は自分が受けている不利益を、受けずに過ごしている人を許すことができないから。


ただ、そんな「大人コミュニティ」に属さない生き方こそ、魅力的で美しいと思う。



ここまで書いてきてなんだが、僕は現在会社員だし、「大人コミュニティ」を否定するつもりはない。自分の個性で生きていけるだけの自信のない人、特にやりたいことのない人、「として文化」にストレスのない人は「大人コミュニティ」に属することも僕は応援したいと思う。


そのほうが考えることも少ないし、だらだら生きていくことができる。どっちが楽か考えたら、当然「大人コミュニティ」に従って生きていく方が楽だし、金を稼ぐことも簡単だ。自分の時間さえ売ってしまえば、簡単に生きていくお金を稼ぐことができる。生きていくこと、誰かを養うことが人生の目的なら、間違いなく正解の一つだ。


ただ、そうではなく、自分の個性を大事にしたかったり、お金よりも「やりたいこと」を追求したかったり、「大人コミュニティ」に強烈なストレスを感じてしまう人は、上記のような、「子供のような大人」を目指してもいいと思う。日本にはセーフティネットがしっかりしてる。どれだけ金がなくたって死にはしない。



このブログを運営しているこむろさんは、どうやら「大人コミュニティ」に属さない「子供のような大人」を目指してるようですね。正直大変な道だと思う。常に自分で行動を起こさないと成り立たないかもしれない。お金がなくて辛い思いをするかもしれない。強烈に誰かに批判されるかもしれない。

でも、そういう人の方が単純に見ていて楽しいので、僕は応援したいと思います。



本日は以上。それでは。


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