ニートのアメリカ留学物語

今アメリカに留学している。ニート。日々の鬱憤を爆発する場所。

【経営戦略の歴史第1章】大衆への思いやり、賃金、効率化超絶UP。「豊かな大衆」をつくったヘンリー・フォード。しかし、、、

皆さんこんにちはALEXです!

今回は科学的管理法とフォードシステムによって一般市民に高級品と言われた自動車が容易に買えるようになりました。その方法とは一体何なんだろう??

 

ヘンリー・フォード(Henry Ford)1863~1947


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世帯年収8分の1の価格の自動車をつくり「豊かな大衆」を生み出した男。

1863年ミシガン州の農家で生まれた。

16歳、見習い機械工として社会に出て、エンジニアになる。

33歳、自動車をつくりはじめる。

40歳、フォード・モーターを設立し5年後にT型販売開始。

 

1885年、ドイツでダイラムーとベンツがガソリン式自動車を発明します。しかし当時は自動車はお金持ちだけのものでした。

 

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ダイムラーメルセデス(1900)

3000ドル以上(当時の世帯年収は750ドル)

 

それを見たヘンリー・フォードはいつか僕もあんなかっこいい車を作りたいと思い

1903年、40歳でフォード・モーターを設立します。

この時、3000ドル以上する自動車は庶民には到底買えない高嶺の花だ!そんな車を誰にでも買えるように開発すると決めました。フォードは試行錯誤を繰り返しモデルA,C,F、高級車Kなどの多くの失敗を経てようやく成功を収めました。モデルT、つまりT型フォードの完成です。1908年、950ドルで販売開始。ついに格安で売ることができましたが、フォードは全然値段に納得はいきませんでした。

そこでフォードは言いました。アメリカは広く、馬の10倍走る足ができれば土地の安い郊外に一軒家を立てて、そこから会社に通勤することが出来る。つまり、今の価格ではダメで、もっと値段を下げて誰にでも買えるようにしなければならいと。目指せ!プライス・ダウン!フォードの夢はとても大きなものでした。

 

テイラー流を極めたフォード・システム:究極の流れ作業

フォードはまず低コストと高い信頼性を実現するため、「作業の時間・動作分析」による「作業の標準化・マニュアル化」を導入しました。さらに「徹底した分業化」と「流れ作業」を加えました。熟練工の作業は何十・何百もの単純作業に分割され、それをベルトコンベヤ等がつなぎます。サブの生産ラインはすべて、最終組み立てラインと同期されてました。それはまさに、テイラー流の科学的管理法と同様に「作業の時間・動作分析」による「作業の標準化・マニュアル化」でした。こうして効率的な大量生産システムを確立したフォード車は値下げに成功して、年々値下げを繰り返しました。

1908年・950ドル

    ↓ 

1925年・260ドル

そしてついにTフォードは世帯年収(2000ドル)の8分の1で買えるようになり大衆の足となったのです。

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フォード・モデルT。

日本では通称T型モデル。

 

「より多くの賃金を労走者に払いたい」とフォードは願った。

フォード社は一日たった8時間働くだけで日給5ドルも貰えました。夫婦で働けば年収3000ドルと好待遇により工場労働者の賃金は全米でトップになり、全米から就職希望者が集まりました。でもなぜフォードは好待遇で従業員を雇ったのでしょうか?これはフォードが独特なフォーディズム(経営観)を持っていたからです。それが「大衆へのサービス精神」・「利潤動機より賃金動機」でした。彼は、経営者たる者は「より多くの賃金を従業員に払う」ことを主たる動機とすべきだと考え、実践したのです。

こうしてフォードの工場は24時間3交代制でフル生産が可能になり、フル生産で車を安く供給できるようになりました。高い賃金をもらう従業員はその後T型フォードの顧客になると考えました。

結果、巨大な循環が生まれフォードは外交で車で通う「豊かな大衆」を生み出すことに成功しました。

 

しかし豊かな大衆はもはや単純作業に耐えられなかった(泣)

盤石に見えたこのサイクルに誤算が生じました。タイヤフレームに鉄輪をはめる工程では1人がタイヤフレームと鉄輪を重ね、もう一人はそれをプレス機に挟んで一体化します。4秒に1回、1日8時間で約7000回のペース。フォードの工場の単純作業は耐えられなくなっていたのです。フォードは「豊かな大衆」を生み出すとともに社会と自社に対し「経済動機の限界」を突きつけることになりました(´;ω;`)

その問題を打開したのが次に登場するオーストラリア人のエルトン・メイヨーでした。化学的な手法を使いながら、しかし人間性重視への扉を開いたのです。

 

次回

今では当たり前の「人間関係論」の誕生!!

どうやって誕生したのか、そして新たな発見、そこに迫ります。