ニートのアメリカ留学物語

今アメリカに留学している。ニート。日々の鬱憤を爆発する場所。

【第2章開幕】「経営戦略」で世界恐慌を乗り切ったチェスター・バーナード先生! バーナード革命でなんかかっこいいよね

皆さんこんにちはALEXです。
第1章が終わり、第2章の「近代マネジメントの創世」の始まりです。
今回はあの世界恐慌を経営戦略で乗り切ったという、バーナード革命です。
では書いていきます(^▽^)/

チェスター・バーナード(Chester L.Barnard)1886~1961

f:id:ALEX100:20190116040156j:plain



41歳ベル子会社の社長、20年間活躍
52歳『経営者の管理』出版。共通の目的=経営戦略、などとし「バーナード革命」と呼ばれる。

世界恐慌

社会ではなんともしがたい力が企業を襲うことがあります。
1930年代はアメリカと欧州列強諸国にとって暗黙の時代でした。

アメリ
1929年10月24日、アメリカ株式市場での株価急落(black Thursday)に端を発した信用縮小は世界を飲み込み、世界恐慌とよばれる経済崩壊を引き起こしました。第1次世界大戦後の好景気でバブル状態だったアメリカのダウ平均株価は5分の1になり、GDPも3割減と大きく落ち込みました。

イギリス・フランス
イギリスも大打撃を受けました。1931年以降、旧植民地各国によるブロック経済化を進めます。
他の国のモノは安いから入っちゃダメ!!
      ↓
  高い関税の壁を立て
      ↓
    入れなくした

ドイツ
ドイツでは第1次世界大戦後の巨額の賠償金を支払いに加えて、アメリカ・フランスも資本の撤退で経済は破綻、失業率は40%を超えます。これがヒトラー率いるナチスの台頭を招き第2次世界大戦へと繋がります。

1930年代は外部環境の変化で多くの企業が倒産しました。このとき、企業経営者たちは「外部環境」というものの恐ろしさを思い知りました。自社1社ではなんともしがたい力が企業を襲い、多くが倒産しました。下り坂であったフォードは世界恐慌に際し、在庫を抱えて方針転換もままならず、その傷を広げました。

しかし一方で外部環境の変化に対応した会社もありました。
「ピンチはチャンスなり~」
ルフレッド・スローン(Alfred Sloan、1875~1966)

f:id:ALEX100:20190116040221j:plain


GMの中興の祖アルフレッド・スローンは多ブランド戦略や自動車ローンの提供絵需要喚起や在庫管理に成功してシェアを大きく伸ばしました。ついにはT型フォードでの単品経営にこだわったフォードを抜き去ります。スローンの分権経営の勝利でした。

このように外部環境の大きな変化に対しての経営者の方針が企業の運命を決めたのです。

このことを明確にしたのがチェスター・バーナードでした。彼もフェイヨルと同じく経営のプロでした。1927年から20年間、ベル子会社の社長を務め、その発展に貢献しました。社長在任中に出版した『経営者の役割』(1938)は世界恐慌で苦しんだ経営者を鼓舞するものでした。君らの役割は重い、と。

バーナードの主張

企業体は単なる組織の集まりではなくシステムとして動かさなくてはならない。
彼は企業体を単なる組織ではなくシステムとして定義しました。
そしてその成立要件として3つ捧げました。

①共通の目的(=経営戦略)
②貢献意欲
③コミュ二ケーション


経営に対して「戦略(strategy)」という軍事用語を用いたのは彼が最初です。経営者は自ら目的をつくらなければなりません。そしてそれを実現するために作戦(戦略)を考え、連絡を密にし、モラール(士気)を高めるわけです。当時、自らの組織(システム)に「共通目的(経営戦略)」を与えるのは経営者の役割なのだという考え方は画家的なものでした。
彼は古典理論(テイラーなど)・新古典理論(メイヨー、フェイヨルなど)と、この後の近代マネジメント論をつなぐ結節点として捉えられています。


ここからいよいよ「経営戦略論」の登場です!

次回

時代を超えた巨人、ドラッカー





【第1章最終回】初期の「企業の統治プロセス」をつくったアンリ・フェイヨル!そもそもプロセスって何?

 皆さんこんにちはALEXです。

今回は前回とはジャンルの違う「企業のプロセス」を紹介していこうと思います!

初期の企業プロセスって一体どんなものなんだろう??

 

 経歴

アンリ・フェイヨル(Henri Fayol)1841~1925。(日本ではファヨルと書かれることが多いが仏語発音に準じてフェイヨル)

f:id:ALEX100:20190114101111j:image

19歳、仏グランゼコール卒業

25歳、主任技師になる

31歳、鉱山部門の役員

37歳、経営を任される

47歳、本社の社長、30年案活躍

75歳、「産業ならびに一般の管理」を出版

33年後英訳され世に広まる

 

 

プロフィール

テイラーとほぼ同じ時代を生き、そしてより大きなインパクトを近代マネジメントに与えた。企業活動を定義し全社的「統治プロセス」をつくった、スーパーエリート。

1841年フランスで生まれ教育の最高峰グランゼコールのひとつを19歳で卒業する。鉱山企業で昇進を重ね、47歳で本社の社長に就任する。倒産寸前だった同社を優良企業へと転換し、以来30年間、トップとしての責務を果たした。50代後半からその豊富な経営経験を独自の経営理論になとめ『産業ならびに一般の管理』として1916年に出版した。

25歳、主任技師

   ↓

31歳、役員

   ↓

37歳、鉱山の経営

   ↓

47歳、社長

 

企業における必要不可欠な活動を6つに分類した

  1. 技術活動=開発、生産成型、加工[開発・生産]
  2. 商業活動=購買、販売、交換[販売・購買]
  3. 財務活動=資本の調達と運用[財務]
  4. 保全活動=資産と従業員の保護[人事・総務]
  5. 会計活動=棚卸、バランスシート、コスト計算、統計[経理
  6. 経営活動=計画、組織化、指令、調達、統制[経営企画・管理]

この中でも6番目の経営活動が重要だと考えた。ビジネスの方向性や経営方針を定めること各種活動間の調整、それらすべてが「経営活動」になる。

経営活動

  • ビジネスの方向性
  • 経営方針
  • 各種活動間の調整など

 フェイヨルは組織レベルが上がるにつれて「経営活動」の比率は上がるべきだとした。

 社長は会社の規模のよって時間、能力の50%をあるべきとしました。


f:id:ALEX100:20190114100037j:image

 

68年後、ポーター(後にでる巨匠)が唱えたバリューチェーンそのもので、なかでも経営活動は画期的だったと言える。

 

企業の経営管理プロセスはPOCCCサイクルと定義した

すばり5つ!

経営管理(Administration)

計画(Planing)

   ↓

組織化(Organizing) 人・もの・お金

   ↓

指令(Commanding)

   ↓

調整(Coordinating)

   ↓

統制(Controling)

 

 これをPOCCCサイクルと呼んでる。このPOCCCサイクルを回し続けることこそが企業を経営管理するということであり、それは組織に寄らず普遍的であるというのが彼の主張だった。

現在でもPDS(Plan→Do→See)やPDCA(Plan→Do→Check→Act)サイクルとして大いに用いられている。

 

テイラーは工場を管理し、フェイヨルは企業と人を統治した。

テイラーは時代背景からくる管理内容(作業と賃金と生産性向上)や手法の「偏り」もありましたが、その管理範囲の「狭さ」にもありました。彼の関心は主に工場や現場内の生産性向上であり、工場叩き上げの技術コンサルティングでは限界があり結局その限界を大きくはみ出ることはしませんでした。

一方、プロの経営者だったフェイヨルはテイラーやメイヨーのような工場や現場を管理範囲とするのではなく、企業全体を管理範囲にしてました。なので経営管理という意味に「マネジメント」ではなく「アドミニストレーション」という言葉を用いました。

またテイラーの「人間関係論」を待つことなく、人間管理と関係管理の重要性を認識していました。マネジャーたちには「常に従業員や組織の状態に気を配る」ことを求め、有名な「14の管理原則」では「原則11公平(公平とは公正に思いやりを込めたもの)」としています。原則を守りつつも、思いやりのある配慮をしてこそ企業は統治(Governing)できるというのが、経営者として彼の学びでした。

 

 


これで第1章は終わりです。
〈振り返り〉


第1章では近代マネージメントの3つの源流を紹介しました。
「科学的管理法」を生んだ、フレデリック・テイラー
「豊かな大衆」を生んだ、ヘンリー・フォード
「人間関係論」の始祖エルトン・メイヨー

「統治プロセス」を生んだ、アンリ・フェイヨル


第2章では「近代マネージメントの創生」を書いていこうと思います。
ついに「経営戦略」という言葉がうまれ、3つの源流を土台に「経営戦略論」が生み出されていきます。


次回


世界恐慌を救ったヒーロー、バーナード革命!!
どうやって世界恐慌を乗り切ったのか??その方法に迫ります。

是非お楽しみに(^▽^)

【経営戦略の歴史1章】3話。人間関係論の誕生!!これが源流や!!

皆さんこんにちはALEXです。

 

今回は前回の2話で単純作業化によって生産性向上・賃金向上は成功しましたが、労働者が単純作業に耐えられなくなり失業率があがりました

そこで人間関係論が生まれました。それは一体どういうものなのか見ていきましょうー

 

失業率250%から5%まで下げた「人間関係論」の始祖、ジョージ・エルトン・メンヨー(George Elton Mayo)1880~1949


f:id:ALEX100:20190112214336j:image

31歳、医学・倫理学・哲学を修め教員になる。

42歳、米港に渡り「ミュール実験」。その後、HBSに招聘され「ホーソン実験」に参加

   スタンフォード大学のウォートン・スクールで業績を築く。

 

「社会的存在としての人間」を見出したのは、1880年オーストラリアのアデレードで医師の子として生まれたエルトン・メンヨーでした。医学・心理学・哲学を学び42歳でアメリカに渡りペンシルバニア大学ウォートン・スクールで「産業精神衛生の研究」に携わりました。

 

ことの始まりは?

1923年、フィラデルフィアの紡績工場最新鋭のミュール紡績部門だけは他の部門に比べて離職率がとても高く、その原因を探る研究をメイヨーに頼みました。当時のミュール紡績部門は離職率驚異の250%。毎月従業員の2割が辞める計算になります。(他の部門は年5~6%)

メイヨーは離職率が高い原因は仕事の「単純さ」と「孤独さ」からくる「精神的疲労」が原因だと推測しました。そして従業員たちにもっと休憩時間を与えるよう提案しました。

数ヵ月後

メイヨーの目論見は当たり離職率は年5%程度へと劇的に低下しました。さらに生産性も向上したのです。

離職率250%→5% 改善

生産性UP

メイヨーの推測通り就職率は下がりましたが、もっと下がった原因は他にあるんじゃないかと考えました。

 

1927年ハーバード大学ビジネススクール(HBS)に移っていたメイヨーは電話機製造会社ウェスタン・エレクトリックのホーソン工場での実験に取り組みます。

 

科学的管理法に反する結果!?

実験1、照明実験

最初の実験では照明実験を行いました。

「作業効率は照明が明るくなるほど上がる」と言われていたので実験してみたら、、

 

照明を明るくしたときも暗くしたときも生産性がどちらも上がったのです。しかも、照明を変えてないチームまで生産性までも上がったのです。この実験結果はテイラーの科学的管理法に反してました。この結果に驚いたメイヨーは他のパターンでも実験を行ったのです。

 

実験2、労働条件をいろいろと変える

メイヨーは100人の女工さんたちから6人を選んで実験チームをつくりました。

実験チームに対してはいろいろと労働条件をかえてみて生産性がどうなるかを調べました。

賃金UP

休憩

軽食の提供

部屋の温度。18℃or35℃

部屋の湿度

 

実験結果は予想外でした。

労働条件がどう変わろうとも、条件が変わるたびにその生産性を上がり続けました。彼女らのプライドや連帯感は、すべて(賃金・作業環境など労働条件)に打ち勝ったのです。

 

実験3、大規模面接

こうなれば一度工場で働いている従業員全員に話を聞いてみたいと思い、

1928年~30年、従業員に対する大規模な面接調が行われました。当初は検査部門1600人が対象でしたが最終的に工場全体2万人以上が面接対象になりました。聞き取り方法も当初は質問項目が決まってましたが途中から現場マネジャーが面接を行うようになり面接も自由に会話する雑談のようなものに変わっていました。

でも意外な結果がすぐに表れました。

面接をしただけで(内容にかかわらず)生産性が向上したのです。従業員は話すうちに、自分の不満が根拠のあるものなのかどうかを自ら理解し、現場マネジャーは聞くうちに部下たちの状況を把握し、対処することで自らを高めていたのです。

 

メイヨーの結論

他の実験結果の結果を踏まえて、彼は結論づけます。人は賃金ではなく人間関係で働く、と。

 

  1. 人は経済的大家より、社会的欲求の充足を重視する。
  2. 人の行動は合理的でなく感情に大きく左右される。
  3. 人はフォーマル(公式)な組織よりインフォーマル(非公式)な組織(財閥や仲良しグループ)に影響されやすい。
  4. ゆえに人の労働意欲は、客観的な職場環境の良し悪しより、職場での(上司や同僚との)人間関係に左右される。

つまり
会社で定めたルールや仕組みを押しつける厳格な上司よりも、チームや個人の状況に裁量権を与えてくれる上司のもとでこそ士気も生産性も上がるということ。


労働環境や条件なんて生産性とそれほど関係ないってことかぁ?

いや!テイラー先生の「科学的管理法」が間違っていたわけではなく

生活水準の向上が人間を「経済人」から「社会人」に変えたのだ!

 

以来、企業での生産性向上というテーマは、まことに複雑で深遠なものになりました。

  1. コスト
  2. 効率
  3. +a感情

コストや効率だけではなく、感情も扱わなくてはならなくなったからです。

 

こうして研究を重ねたメイヨーは働く者たちの幸福のために「人間関係論」という主張を構築しました。

それは「産業社会学」という新しい学問分野を生むと同時に、「行動科学」という名のもとで様々な実学を生み出してきまいした。今われわれにもなじみ深い

  • モチベーション研究
  • リーダーシップ研究
  • カウンセリング研究
  • 提案制度
  • 小集団活動

などはすべてメイヨーの「人間関係論(的管理法)」が源流なのです。

 

そうしてメイヨーは67歳の退官するまで多くの弟子たちを育て69歳でこの世を去りました。

 

 

人間関係論によって、ようやく経営戦略の基本が見えてきました(^▽^)

次回は第1章、最終回!

 

次回

「企業活動」を定義し、「企業の統治プロセス」をつくったアンリ・フェイヨル

これがなければ今の企業活動がない( ಠωಠ) (°Д°;

 

 

 

 

 

 

【経営戦略の歴史第1章】大衆への思いやり、賃金、効率化超絶UP。「豊かな大衆」をつくったヘンリー・フォード。しかし、、、

皆さんこんにちはALEXです!

今回は科学的管理法とフォードシステムによって一般市民に高級品と言われた自動車が容易に買えるようになりました。その方法とは一体何なんだろう??

 

ヘンリー・フォード(Henry Ford)1863~1947


f:id:ALEX100:20190111050311j:image

世帯年収8分の1の価格の自動車をつくり「豊かな大衆」を生み出した男。

1863年ミシガン州の農家で生まれた。

16歳、見習い機械工として社会に出て、エンジニアになる。

33歳、自動車をつくりはじめる。

40歳、フォード・モーターを設立し5年後にT型販売開始。

 

1885年、ドイツでダイラムーとベンツがガソリン式自動車を発明します。しかし当時は自動車はお金持ちだけのものでした。

 

f:id:ALEX100:20190111050525j:image

ダイムラーメルセデス(1900)

3000ドル以上(当時の世帯年収は750ドル)

 

それを見たヘンリー・フォードはいつか僕もあんなかっこいい車を作りたいと思い

1903年、40歳でフォード・モーターを設立します。

この時、3000ドル以上する自動車は庶民には到底買えない高嶺の花だ!そんな車を誰にでも買えるように開発すると決めました。フォードは試行錯誤を繰り返しモデルA,C,F、高級車Kなどの多くの失敗を経てようやく成功を収めました。モデルT、つまりT型フォードの完成です。1908年、950ドルで販売開始。ついに格安で売ることができましたが、フォードは全然値段に納得はいきませんでした。

そこでフォードは言いました。アメリカは広く、馬の10倍走る足ができれば土地の安い郊外に一軒家を立てて、そこから会社に通勤することが出来る。つまり、今の価格ではダメで、もっと値段を下げて誰にでも買えるようにしなければならいと。目指せ!プライス・ダウン!フォードの夢はとても大きなものでした。

 

テイラー流を極めたフォード・システム:究極の流れ作業

フォードはまず低コストと高い信頼性を実現するため、「作業の時間・動作分析」による「作業の標準化・マニュアル化」を導入しました。さらに「徹底した分業化」と「流れ作業」を加えました。熟練工の作業は何十・何百もの単純作業に分割され、それをベルトコンベヤ等がつなぎます。サブの生産ラインはすべて、最終組み立てラインと同期されてました。それはまさに、テイラー流の科学的管理法と同様に「作業の時間・動作分析」による「作業の標準化・マニュアル化」でした。こうして効率的な大量生産システムを確立したフォード車は値下げに成功して、年々値下げを繰り返しました。

1908年・950ドル

    ↓ 

1925年・260ドル

そしてついにTフォードは世帯年収(2000ドル)の8分の1で買えるようになり大衆の足となったのです。

f:id:ALEX100:20190111051023j:image

フォード・モデルT。

日本では通称T型モデル。

 

「より多くの賃金を労走者に払いたい」とフォードは願った。

フォード社は一日たった8時間働くだけで日給5ドルも貰えました。夫婦で働けば年収3000ドルと好待遇により工場労働者の賃金は全米でトップになり、全米から就職希望者が集まりました。でもなぜフォードは好待遇で従業員を雇ったのでしょうか?これはフォードが独特なフォーディズム(経営観)を持っていたからです。それが「大衆へのサービス精神」・「利潤動機より賃金動機」でした。彼は、経営者たる者は「より多くの賃金を従業員に払う」ことを主たる動機とすべきだと考え、実践したのです。

こうしてフォードの工場は24時間3交代制でフル生産が可能になり、フル生産で車を安く供給できるようになりました。高い賃金をもらう従業員はその後T型フォードの顧客になると考えました。

結果、巨大な循環が生まれフォードは外交で車で通う「豊かな大衆」を生み出すことに成功しました。

 

しかし豊かな大衆はもはや単純作業に耐えられなかった(泣)

盤石に見えたこのサイクルに誤算が生じました。タイヤフレームに鉄輪をはめる工程では1人がタイヤフレームと鉄輪を重ね、もう一人はそれをプレス機に挟んで一体化します。4秒に1回、1日8時間で約7000回のペース。フォードの工場の単純作業は耐えられなくなっていたのです。フォードは「豊かな大衆」を生み出すとともに社会と自社に対し「経済動機の限界」を突きつけることになりました(´;ω;`)

その問題を打開したのが次に登場するオーストラリア人のエルトン・メイヨーでした。化学的な手法を使いながら、しかし人間性重視への扉を開いたのです。

 

次回

今では当たり前の「人間関係論」の誕生!!

どうやって誕生したのか、そして新たな発見、そこに迫ります。

 

 

 

これが経営戦略の歴史の始まりだ! 第1章テイラー「科学的管理法」

経営戦略の歴史をアウトプットするために書きました。間違いなどありましたコメントにてご指摘お願いします!

 

 第1章では近代マネージメントの3つの源流を紹介します。

 

 

経営戦略の始まりは18世紀頃、フレデリック・テイラーの「科学的管理法」から始まりました。

 

フレデリック・テイラー(Frederick Taylor)1856〜1915

f:id:ALEX100:20190111051501j:image

ハーバード大学法学部に入学するが目を悪くして退学。

19歳、ポンプ工場に見習い工として就職以降、職場の生産性向上に努める。

35歳、独立して、多くの企業を立て直す。

55歳、「科学的管理法の原理」を出版。

 

18世紀頃、産業革命により街頭や工場に明かりが普及し始めた。

テイラーはハーバード大学法学部に合格するが目の病気により大学を辞めることになった。

その後19歳でポンプ工場にて現場作業員として勤めた。22歳でメッドベールスチールで機械工として働く。

 

18世紀後半、当時は工場の管理者の力が強く現場作業員らは働くだけ無駄、組織怠業が蔓延していた。

その問題として、当時は賃金が低い上、頑張っても頑張らなくても賃金は変わらないシステム。そして1人当たりの作業量もバラバラであった。

 

テイラーはこのままだと労働者も経営者も幸せになれないと思い、現状を変えようと数々の工夫をしていた。そんな彼に大きな改革をするチャンスが訪れた。社長から、600人の鉱山組織を任されるよう言い渡された。テイラーは現状を打開するチャンスだと思い色々な実験・研究を行った。

従業員が鉱石・灰をショベルで運ぶのに、毎日400・600人が適当なショベルを使っていた。これだと1人当たりの作業量は作業者によってバラバラになる。最適な重量を導き出して最適化する必要があると考えた。こうしてテイラーはショベル作業を研究して計画・管理・業務を明らかにした。

 

まず8種類のショベルの用意。

ショベルを差し込む速度や高さ投げる時間も最適化し研究した結果、1杯21ポンドが最適重量だと分かった。そのため作業者に合ったショベルが必要になった。

加えて、賃金体系もある一定の作業量を超えれば賃金率を上げる段階制にした。労使双方の幸せにするためには運搬量と道具の最適化、そして賃金体系の改正は避けて通れなかった。

その結果

1人当たりの作業量

16トン→59トン  3.7倍

 

1人当たりの賃金

$1.15→$1.18  +63%

 

生産量当たりのコスト(10トン当たり)

72セント→32セント  -56%

 

これで「労使の相互不信から相互信頼・協調への転換」「生産工場による恩恵の労使での享受」になった(^▽^)/

その後もテイラーは多くの企業を立て直し労働者の賃金向上につなげました。独立したテイラーは「管理の目的は労使の最大繁栄」そして従業員の繁栄は賃金だけでなく「生来の能力の許す限り最高級の仕事が出来ること」だということを多くの人に広めました。

 

1911年、55歳になったテイラーは「科学的管理法の原理」を出版した。

 

科学的管理法とは

 

①タスク管理(課業管理)

一日の公平な仕事量を定める

 

②作業研究

熟練工のムリ・ムダ・ムラのない作業を未  熟練工に伝える

 

③マニュアル制度

使う道具や時間、作業が標準化されマニュアル化される

 

④段階的賃金制度

作業者のモチベーションを引き出すためのもので、1日のタスク(公平な仕事量)を超えていれば」賃金率が上がるなどの制度

 

⑤職能別組織

組織を計画機能と執行機能に分け、各々に専門部署を置く

 

公平な条件のもとで、より高い賃金を求めていた労働者や生産量の拡大を急ぎ効率化を求めていた経営者たちにとって理にかなったものでした。

そしてテイラーはさらに多くの労働者が幸せになることを望んでいましたが、それは叶えませんでした。

生産性向上と賃金向上の両立を目指したが

経営側が暴走しました。テイラーの科学的管理法を利用し労働生産向上の道具だけに使い、その利益を労働者たちと分け合えませんでした(怒)

労働者はそれに反発して科学的管理法の導入拒否を訴える労働組合が出来ました。

その批判はテイラーにも被害が向き結果、計画・管理と現場を分裂して労使対立を激化してしまいました。

 

こうして、テイラーは後世の人々は私の夢みた世界を実現してくれるはず、、と信じて1915年59歳で亡くなりました。

 

テイラーさん超かわいそう(´;ω;`)

 

次回

彼の前提であった「労働者は賃金の為に働く(経済動機)が崩れ始め、安価な自動車、T型フォードがその端緒に!

 

 

 

盛岡から青森に行く人少なすぎ問題発覚!!母数の限界を超えるその時になにが?!

皆さんこんにちは、ALEXです!

 

【今回のテーマ】

盛岡から青森に行く人少なすぎ問題発覚!!

母数の限界を超えるその時になにが?!

 

です。

 

 

僕が目的地、北海道に行くためには新青森駅に行かなければなりませんでした。

 

東北道で青森を目指すも実は2つ目的地が分かれてるんですよ。

 

  • 1つ目は新青森方面
  • 2つ目は八戸方面

 

新青森駅から八戸駅まで100キロも離れていて、道を間違えると大変な事に。

ヒッチハイクで行く人は気を付けてください)

 

で、

青森と八戸の分かれ道前に休憩所があって、そこはトラックの運転手にとって最後の休憩と言われているんでね。

 

と言うことは、そこがヒッチハイクポイント!

 

その名は岩手山SA(気がする)

約20~30台くらいのトラックと10台くらいの自動車が停車可能。

 

【いざ!ヒッチハイク!!けど特殊なケース?】

今回のケースはヒッチハイクする時間帯が一番重要!捕まる確率が大きく変わる。

 

なぜなら、、、

トラックが朝6時から6時30分くらいに一斉に出発して、それまでにトラックか自動車を捕まえないといけないというハードミッション。

しかも、皆寝起きで機嫌が悪いかもと少し汗が出ます(笑)

 

そうして、朝5時からヒッチハイク開始!

めっちゃ寒い中、段ボールを捧げながら一人一人

 

「おはようございます!北海道にボランティアしに新青森方面に行くんですが、乗せてもらいないでしょうか?」

元気よくあいさつをしながら話すも

 

無視する人もいれば

一言で行かない

笑顔でごめんね

 

など色々な返答があり、

中には差し入れする人もいて、その時はやる気がバグ上げもして

 

そんな感じで1時間経過して、朝の6時。

トラックがついに動き始める。

 

焦りながらも呼びかけていくが

 

徐々に減っていくトラック、徐々に減っていく人、徐々に増していく不安

 

そうして1時間30分が経過。

ほとんどの人に呼びかけ、もう人はいるのか?状態

 

【ここで聞いて分かった豆知識】

〈トラックの運転手は2つの内、目的地はどこかなのか?〉

30台のトラック中、

 

約23台が八戸方面

約7台が新青森方面

 

7台もいれば簡単に捕まると思ったそこの自分

 

実はトラックの会社によっては乗せてはいけない会社が存在し、特に大手の会社などが多い(大手引っ越し会社など)

 

だから、母数が少ない上この条件をクリアしなければ新青森駅には行けないのだ。

 

 

そうこうするうちに、トラックは少なくなっている(泣)

 

諦めずヒッチハイクをすること1時間45分。

残り5台っていうところでやっと捕まえられた。

 

その後は新青森駅まで行き、フェーリーを使って北海道着!

 

ちなみに、新青森駅から北海道に行く手段は2つあって

 

①フェーリー行く

お値段、大人 2200円 学生2000円。
 乗船時間 3時間40分。
 船内には売店・トイレ・シャワー・自動販売機・化粧室あり
 (注)期間によって値段、移動時間が変わる。 

もっと詳しく知りたい人👇https://www.tsugarukaikyo.co.jp/timetable/                   

②新幹線で行く

 お値段、約7000円前後

 移動時間 2時間40分。

       リンク👇

https://ekitan.com/transit/fare/sf-992/st-392

 

【感想】

ヒッチハイク野郎 からしたら船は無敵。シャワー室あって、値段も安く、180度に寝れるスペースあり。船内は静かで揺れもほとんどない。

24時間ぶりにゆっくり寝れた瞬間でもあった(⌒∇⌒)

 

 

 

【まとめ(分析)】読まなくてもいいと自負する

今回の出来事で何が言いたいかって

 

母数の限界を超えるその時に何が!?

はい、簡単です。孤独で死ぬだけです。

 

一般的なSAは車やトラックの行き来が多いが岩手県にもなると、特に上りは母数に限度があり1台1台が命綱になっていくのだ。

トラック運転手が言うには唯一台数が多い時間帯は朝らしく

だから

平日は地雷で深夜にはすでにSAに居た方が良いのかと行ってみて思いました。

 

けど一度は車数が異常に少ないSAでヒッチハイクをしても良いかもしれませんね(ドM )

 

 

ここまで読んでくれてありがとうございました!

また次の記事で会いましょう!!

 

では

【最初の危機に直面、俺行けるの??】ヒッチハイクで北海道まで行く。仙台編

 

皆さんこんにちはALEXです。

 

一ヵ月ぶりの続編、ヒッチハイク編!

正直、自分でも続編あるんか?とか思ってましたが、脳内で記憶が整理されたのと責任感で書かなければならぬ。と思い書きました。

 

では!

*温かい目で読んでくださいm(__)m

 

 

(前回の振り返り)

東京から仙台まで一本でいけることに成功!
乗せてくれた人も話もめっちゃ面白くて最高!!

ガス欠しかけたと言うハプニングもあり最高な車旅!

ガソスタよって2000円分に給油をするも、バイトの兄ちゃんが5000円分入れてヤバタニエン。

乗っけてくれた人元ヤンでめっちゃいい人だったけど、3000円払う気なく「すみません5000円入れてしまったのですが、3000円いいですか?、いや、間違ったのそっちでしょ?!俺絶対払わないから(キレ気味)、では、大丈夫です。ありがとうございました。、、、

 

3秒後

 

いやーー、バイトの兄ちゃん可愛そうやな。先輩怒られるやんけ笑

と急に笑い出し

おぉ、、すげぇぇ。

元ヤン時代の名残見えたわ!

と驚きつつ、笑いました。

 

と、言っている間に仙台に到着。

 

 

【話の始まり】

仙台まで行けたは良いものの、なんと車通りが少ないところに降ろされてしまったこと。しかも高速を降りたてしまっていて、、

 

 

 

そもそも、なぜそんなところに降ろされたのか??

運転手の親切にもコンビニとゲームセンター、漫画喫茶などがあるところに降ろされて

自分も、これなら一晩泊まれると思いマジ感謝(夕方5時半)

 

30分くらいヒッチハイクの募集を募ったが立地条件が悪いのか捕まらず、日も落ち始め気温も下がり

今日は仙台まで来たし一泊しようと決め、Let`s 漫画喫茶!!

中に入るが入口が見つからず、ゲーセンのおっちゃんが言ってきた。

 

「この漫画喫茶、地震の時に潰れたよ、看板だけ残ってるんだけどね(笑)」

「おい!、(笑)じゃないし、なんでーーー」

 

そういうことで、Let`sヒッチハイク(^▽^)/

 

まぁ、そんな感じで車も見えないくらい暗くなってきて気温も一桁になりヒッチハイクを続けること1時間30分。

 

ついに止まった!!

「距離はそこまで行けないけど、高速までならいいよ。」

 

「あああざっす!」

 

って感じで高速に遂に戻れる(´;ω;`)

 

こうして、夜勤に行く40代くらいのおじさんに乗せてもらい無事救われました。

 

【振り返り】

今思えば小さいピンチだと感じるけど、

当時は

寒すぎて死ぬかも

めっちゃ疲れて寝たい

これから、まだヒッチハイクするのー、えー(泣)

温泉♨入りたい

 

とか言ってたけど、こうして何とかなって

旅っぽいなーと思いエモさを感じながら暖房の利いた車内で小さく笑い北海道に向かうのであった( ´∀` )

 

【次回】

盛岡から青森に行く人少なすぎ問題発覚!!母数の限界を超えるその時になにが?!

 

 

では、また次の記事でお会いしましょう!